タラの芽とザル

{ 食にまつわるお話 }2021.03.28

山菜のちょっとほろ苦いお話

タラの芽とザル

山菜の季節ですねー。スーパーマーケットや東京の直売所に並ぶのは、基本的に栽培された山菜なので、ちょこんとお行儀よく並んでパックされています。春の息吹をそれなりに感じることはできますが、やはり自然のものにはかないません。今回は山菜のほろ苦い思い出を書いてみたいと思います。

子どものころ、山菜と言えばわらびでした。わらび取りはおもしろいけど食べるのは苦手。近所の川の土手にはつくしが大量に生えていて、集めて持ち帰ると母が料理してくれましたが、やっぱり食べませんでした。採るのはおもしろくても大人の味だから食べられない。東京に引っ越してからはおいしいと思うようになりましたが、食べたくてもそこいらに生えているわけではありません。そんな数年前のある日、りんご農家のかあちゃんに「山菜を見に来てよ」と言われました。

来年、山菜を出荷したいから今出てるところを見に来てもらいたいとのこと。山菜といえばわらびとつくしです。フキノトウとかタラの芽とか、どんな具合に発生しているかも知りませんでしたから、驚きの連続でした。何よりも驚いたのは、地面に食べものが無数に落ちているように思えたことでした。

栽培とは、基本的にきれいに耕した地面に野菜が整然と並んでいる印象です。畑は食べものを生産する場ですから、畑に生えているものは落ちているとは思いません。が、山菜は、畑でも何でもない雑草だらけの野原にぽつぽつと生えている、というか落っこちてるのを見つける感じです。わたしは心底ウキウキし、フキノトウを摘みながら笑いが止まらなくなりました。なんの苦労もなく食べものが入手できる、生きものとしての根源的な喜びに満ちあふれたわたしは、かあちゃんたちに「地面に食べものが落ちてる!!」と言って失笑を買いました。

その後、タラの芽摘みをさせてもらい、ヌルデの芽とタラの芽の違いもわからないよこの人は、などとさらなる失笑を買いつつ歩いていると、少し離れた茂みに人がいるのが見えました。その人はわたしたちを見てさっと隠れたました。なんで隠れたのかしらんなどと思っていると「都会から来た業者の人だよきっと」とかあちゃんは言うのです。その山はその人の山ですから、山菜取りに入るときは許可が必要です。が、山菜の時期になると、都会からリュックを背負った人がやって来て、タラの芽を枝ごと切り取って持っていくので困っちゃうのよね、とかあちゃん。

「枝ごと切り取って水につけておけば、タラの芽が2回位収穫できるんだって。枝ごと切られたタラの木は、悪くするとそのまま枯れちゃう。そうするとタラノキがどんどん枯れちゃうでしょう。野放図に採るとなくなってしまうことをその人たちは知らないの。それに、山菜は自然に生えているみたいだけど、山をきちんと管理するから出てくるの。日々の手入れをしてない山からは山菜も採れないんだよね。だから、山菜は山からのごほうびだと思うのよ。そのごほうびを盗まれるとは、やるせないよねえ」

その夜、ほくほくのタラの芽の天ぷらを食べながら、人の山のタラの芽をごっそり持ち帰る人たちのことを思いました。来年も来るに違いない。毎年ごっそり持ち帰るたびにタラノキが減り、いつかはなくなってしまっても、その収奪者は何も困らないのです。なくなればよその山に行くだけでいいのですから。収奪とはなんと卑劣な行いでしょう。許せん!! などと思っても、わたしには何もできないのでした。

毎年スーパーや直売所で、きちんと並んでパック詰めされたタラの芽を見ると、このタラの芽はどこで栽培されたものだろうと思います。食べたいけれど、そのたびにかあちゃんたちの顔が思い浮かんで、どうしても買うことができません。今年も食べずに終わるでしょう。いつか田舎に引っ越して、親戚の山のタラの芽をやまほど採らせてもらうことを夢見ています。

(手島奈緒)